血液型占い

まずそもそも血液型が占いなのか?

占い業界、関係の方なら、大半の方はまず
「血液型などは、およそ占いとは言えない」
と言う、見解じゃないでしょうか?。
実際「血液型占い師」と言う方は、ちょっと聞いたおぼえはありません。

一方、血液型の気質分析を真面目にされている方にとっても、
「血液型は統計や、性格・気質分析であって、
占いなどではない。」
と言う事になるのでしょう。

当然、医学や科学畑の立場の方なら、よほどおおらかな方以外、きわめて多数は、
「血液型は、性格とは関係ない」と言う事になるのでしょう。

なんかもう、どれにしても怒られそうですねえ…(笑)


厳密?にはやっぱり占いってわけではないんでしょうが、霊も透視も超能力も、占いの“類”でまとめられてしまう現状では、“一般的”には、まあ占いの類…って事になるのかも知れません。
血液型だけ別格扱いも難しいでしょうからねえ…



私は最初は学生時代に、友人から進められて能見正比古さんと、能見俊賢さんの本を何冊か読みました。


もちろん、私は一般書だけでしか存じませんから、ご本人の本当の真意のような物はわかりません。
が、一通り読ませていただいた限りで、最初に受けた正直な感想を言うと、まず血液型による分類法と言う作業に取り組んでいる、お二人の真摯な姿勢に驚きました。

いまや占い業界の方が、よっぽど「驚くほど当たる」「秘伝」「脅威の的中率」「未来がわかる!」的な、センセーショナルなキャッチコピーにあふれています。

ところがこの能見さんの血液型の本については、たんたんと「統計→発表→仮説」「集計→発表→仮説」と、実に地道な印象を受けたんです。
当事の著作ではこれが正しいとか、必ずこうなります見たいな、血液型で性格を決め付けているような部分は、逆にほとんど覚えがありませんでした。



よく血液型は科学じゃないとか、統計は偏っていたり、サンプル数が少ないので信頼性が低い…見たいな事を言う方もいますが、この、「黙々と集計、観察して、そこから考えられる自説を発表…」
これって本来の、科学の姿勢じゃないでしょうか?

ファーブルのやってた事もダーウィンのやってた事も、水野南北がやってた事も、発想的にはそう違わない気がするんです。

その上で、解説には非常に気を使って書かれているように思えます。
性格を決め付けて書いているような部分は、およそ印象になかったですし、まずこの「性格」と言う事に対して、非常に神経質に気を使っているように思えました。




例えばこの「神経質」と言う言葉。
能見さんは「それだけでは性格を現してはいない」と主張されています。
神経質、度胸のあるなし、執着心、情緒の安定、全てそれ一言だけでは、性格を表しているわけではなく、方向性や分野など、条件がついて始めて言い表せると…。

ですからもし単純に「A型は神経質、B型は無神経」などと言う風に思っていたのだとしたら、それは誤解だと…

神経質と言う言い方をしてしまったら、当然、いつでもどこでも、全てに無神経な人も、神経質な人もいないと言う事になります。
ただその神経質の「方向、現れ方が」調べた限りの傾向としては、
A型は「周囲との協調や、周りの人の意見など、より外に向かって」
B型は「内部や自分自身のペースを守ったりと、より中に向かって」
現われやすいと言う主張です。

例えばで言うなら、お城の籠城戦なら、A型城主はより、敵の状態や兵力、配置に神経を使いやすいが、B型城主は味方の状況や、士気に神経質になるというように、方向性の違いはあっても、どっちが神経質でどっちが無神経などと言う区別は無いと、再三再四書かれているんですよね。

血液型で性格や評価を決められてはたまったものでは無いと、能見さんご自身が、何度も書かれています。




たぶん皮肉な事に、血液型による分類…と言うのは、エンタティメント性がありすぎたんでしょうね。
誰でも必ず当てはまって知っている、4つの分類と言うのは、非常に取り扱いやすい材料だったのでしょう。

それでTVや雑誌で、扱われていくうちに、簡単は決め付けにすりかわり気味になり、より悪い意味でのエンタティメント性の、尾ひれまでもがついてきてしまって、
「A型はこう言う性格」「B型はこう言う性格」と、曲解され、一面的な断定系になっていった気がします。

十二星座などでも似たような側面はあります。ランクをつけて発表…などは、確かに思わず興味をそそられやすい、わかりやすい切り口なんですが、その辺は上手に楽しんでも、ヘンにわかったつもりになって人を血液型で決め付けてしまったり、踊らされてしまうような事は無いように、見ていきたいですね。




では実際に血液型による気質分析がどこまで“出来る・本当”なのか?
これは正直、現段階では限りなくわかりません。(と、私は思います。)
統計上の結果から見ても、原因から見ても、今のところは確たる肯定も否定も出来ないでしょう。

確かにある種の統計では、傾向の偏りが見て取れるようにも思えます。
が、はっきり傾向がある、と言うには、血液型以外の要素も、多分に関係しているようにも思えますし、この辺は傾向の偏りがどこまで血液型に起因している物なのかは、かなり未知数だとは思います。

医学的、科学的根拠からも、肯定・否定、それぞれずいぶん目を通したつもりですが、ちょっとわかりません。
保守的な科学の大半は、血液型によって性格に差が生じるとはきわめて考えにくい。と言うところでしょうが、これについては、現在根拠が見当たらないからと言う理由で、全否定してしまうのもおかしな気はします。



そもそも血液型のお話は、私が知る限りは統計上の結果から、はじまっているように思えます。

で、その統計がどこまで信頼出来るのか?といえばこれがまた、極めて未知数だと思う点に戻ってくるんですよね。
私自身は血液型の統計については、必ずしも肯定ではありませんが、むしろこう言う作業の姿勢と意義については、大いに敬意を払いたいですし、否定まではいかない…と言う意味では、なんらかの相関関係の可能性の否定まではしません。


まず母集団をどういう形で、どこでくくるかだけでも、全然違ってしまいます。統計の方向から否定を主張される方の論拠は、主に母集団分のサンプル数の少なさか、もしくはサンプルの抽出方法の偏りでしょう。
これは他の占いの統計においても同じ事が言えるでしょうが、一方ではこれも一面的に「だから否定」との断定はできないでしょう。統計として否定するには、あまりにも血液型以外の要素が入りすぎるんです。同じ理由で積極的に肯定するまでにも行きません。

統計には統計で、現実的にも考え方的にも、限界はあります。統計が無意味と言う事ではもちろんありませんが、完全や万能では無いですし、特にこのテの事には弱い気がするんです。




例えばAさんが
「私の友達3人のA型の人は、自分の部屋は割りときちんと片付けてるのよね…A型ってやっぱり几帳面なのかな?」
と主張したとします。

典型的な反論は
「たった三人でなぜA型が、几帳面と言えるのか?」でしょう。

もちろん
「たまたまAさんの友達、3人が几帳面だったから」と言う理由で、Aさんが
「だからきっと日本中のA型はみんな几帳面」と主張したとしたら、これは明らかにいき過ぎでしょう。


ただAさんの「私の周りのA型三人は、几帳面だった」と言う主張そのものは、Aさんの視点で考える限り“事実”です。

母集団3人分のサンプル数3人ですから、これは現在のAさんの視点で考える限りは“統計上100%”になります。

次に知り合ったA型の“別の人”が部屋が荒れ放題ならまたAさんの見方は変わるでしょうし、同じ3人でも、今度“別の時”に行って散らかっていれば、またAさんの見解は変わるかもしれません。

でも“今”、“Aさんにとっては”事実なら、イキナリ日本人や世界中の人すべてと言う“母集団”を持ち出して
「だからあなたの主張はおかしい、統計を知らない」といくら言って見ても
「今、Aさんにとっては、3人のA型の友達は、たまたまみんな部屋をきちんとしている、几帳面な人」と言う事実は変わりません。

血液型について、かみ合わないでいるやり取りを見ると、たいていこう言う調子で、視点自体が違うんです。





私自身は「否定はしない」、と言う意味では、むしろかなり肯定に、緩やかな立場のつもりです。(肯定の可能性については、否定しない…みたいな感じですね♪)

全体での肯定や、積極肯定には、かなり微妙な物があると思いますが、反対に単位を友達や、私の周り数人…見たいな、くくり方にしていけば、類ともの法則で、「○型だからこう言う性格」と言うわけではなくても、「こう言う類の性格の人達が、聞いて見たらみんな○型だった。」こう言う事はそこそこ、ありうると思っています。


ヘンな言い方ですが
「臨床の場においては、あると思っていらっしゃる方の周りには、ある(結果的に起こる)と考えても、良いのでは無いだろうか?」と思っていますので、私は「そう言うものもあるんじゃ無いだろうか?」と言う方にはその前提でお話しています♪




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