☆ 5-11、 
人を呪ったり、不幸を願うような術、
おまじないは副作用があるけれど、
良いおまじないや、光や善の術、
白魔術なら心配や、副作用は無い。
これは本当? ☆


A、ハートランドなら…

まあ考え方や言葉の意味を、
どう取るかにもよるでしょうが

言ってしまえば…

嘘っ!


と、考えます。


もちろん、良いおまじないやっても、悪い反作用があるとか
そう言う単純な意味では無いんですけどね?
反対に、良いおまじないだったら、まったく心配は無いとか、
反作用に当たる影響は、一切無いのか?と言えば、
これは必ずしも、そうも言い切れないだろう…
と言う意味での



とでも受け取って下さい。


基本的に、作用に相当する物があれば
副作用(反作用)に相当する物は、あると思います。
(すごい大雑把な、言い方ですけどね?)
だから良い副作用だってあるだろうし、
そもそも作用にせよ反作用にせよ、
何をもってして良いと考えるのか?
誰が悪いと考えるのか?

良いとか悪いは多くはご本人の目や立場から見てであって
万人に共通の、絶対的な基準があるわけでも無いでしょう。
多くの場合は「後付で」「その人の目から見て」
良いなり悪いなりと、言う事になります。

人を憎む、呪いや恨みの類のおまじない、気持ちは
マイナスのエネルギーや波動であって、
そう言うマイナスは自分にも返ってくる。
人を愛する、人を想う類のおまじないや気持ちは
プラスのエネルギーや波動であって
そう言うプラスの気も、自分に返ってくる。


こう言うのは
基本的には、あると思います。
ただ基本が全てにおいて通じるほど、
人間の世界は単純では無いですよね?


ちょっと難しい言葉ですが
義務論的思考、倫理と言う考え方と
目的論的思考、倫理と言う考え方があります。

例えば
「嘘をつくのは良く無い」とあったとしますよね?

目的論的思考、倫理と言うのは嘘をつく事によって、
悪い事態が生じるので良くない、と考えます。

逆に言えば
「悪い事態を生じさせない」と言う目的のための
「嘘をつくのは良く無い」なのだから、結果的に
悪い事態が生じなければ良いではないか?と、考えます。

例えば
「嘘をついても」心配をかけないための嘘とか、
こっそり計画しているバースディパーティーを隠して、
びっくりさせてあげたいと思うような気持ちからの嘘なら、
別に
「悪い事態は生じない」でしょうし、
一方で
「嘘をつかなくても」ひどく残酷な事実や、
お気の毒な悲報を、余りにもそのまま伝えすぎて
「悪い事態が生じる」ようなら、ちょっとどうかな…
と言うような考え方です。

反対に義務論的思考、倫理と言うのは、
引き起こされる結果や成り行きではなく、
嘘をつくと言う行為そのものが良くない、と、考えます。

こちらだと、結果的に別に何も
「悪い事態が生じなかった」としても、
それは文字通り結果であり、
「嘘をつくのは良く無い」のだから、
嘘をついた時点でまずいけないし、
「嘘をつかない」事によって「悪い事態が生じた」としても、
それはしょうがないのだ…というような考え方です。


ここではどちらが正しいとか間違っているとか、優劣ではなくて、
こう言う風に考え方一つとっても、二通りあって、
それぞれは両立はしない場合だってある…と言う事を、
頭の片隅に、おいてみて下さい。


おまじないや魔術、ご祈祷のところで、
もし確率100%だったら、同じ対象に別々の人がかけたら?
あるいは同じおまじないや魔術、ご祈祷で
別のおまじないや魔術、ご祈祷が
きかないようにとかけたらどうなるのか?
と言う例を出しましたが…。

同じように、愛で善で光の白魔術で
同じ彼と結ばれますように…と、
二人の人がやったらどうでしょう?

最初の人のおまじないがかなって、彼と結ばれて
「そのために」二人目の人のおまじないは届かず、
彼とはダメになっちゃった。

最初の人の、愛で善で光の白魔術のために
二人目の人はマイナスの作用を、及ぼされた結果になります。
最初の人のおまじない行為は
義務論的思考、倫理と言う意味では愛のおまじない行為だったけれども
目的論的思考、倫理と言う意味では、
二人目の人には、悲しみをもたらしたとも取れます。

また一人目の人を視点にした目的論的思考、倫理と言う意味では、
良い結果をもたらしましたが。
二人目の人を視点にした目的論的思考、倫理と言う意味では、
悲しい結果をもたらしてしまったわけです。

あるいは、自分自身に返ってくる物以外は
反作用や副作用とは、みなされないのでしょうか?
そうなるとどこからどこまで、誰に及ぼす物を作用と考えるのか?
最初に対象の限定の共通項を持っていないと
論じられない事になります。

また、反対に、彼のために身を引こうとしている人がいて、
彼と別れるおまじないをかけていたとしたら、
それは善でしょうか?悪でしょうか?

時代劇の必殺シリーズでは、世のため人のためにならない悪を、
天やこの世の正義にかわって、仕置していきます。

仕置しちゃうところまでは行かなくても、これに近い
「みんなのためにならないこの人を、何とかしたい〜して欲しいんです」
と言うようなお話しは、ゴロゴロあります。

ちょっと意地悪な例えに聞こえたかもしれませんが、
実はこう言う割り切れ無いお話しこそ、
実際にお仕事をしていると、いくらでもあるんです。



善のおまじないだから、どんな使い方をしても良い(結果しか無い)。
(悪い)副作用は無いと考えるのか?(義務論的発想)
自分にとって善の結果をもたらすのなら、
おまじない自体の善悪よりも、、
むしろ使い方の問題なのか?(目的論的発想)

そしてそもそも、その善悪どっちになるのか?からして
人や視点を変えれば、変わるものであって絶対普遍では無いでしょう。


ま、確かに実際は、よほどの場合でも無い限りは、
基本的には心配は無いとは思います。
愛のおまじないなら、基本的には安心度は高いでしょうし、
邪悪な呪いなら、基本的には良く無い物でしょう。
こりゃ当然です。

ただ「これは善の、光の、白のおまじない、魔術だから」
何の心配もない、副作用も反作用もない…と、
使い方や他の視点を隠して、安心させるための方便として、
おまじない自体に副作用無し、のラベリングをするのなら、
それはちょっとどうかなとは思います。

愛は良いけど、執着はいけない、
恋愛は良いけど、不倫はいけない、

現実の世の中の方が、よっぽどそんなに
単純にはわけられる、ものでも無いです

善のおまじない、光の魔術だから間違いない♪

時にはキャッチフレーズを鵜呑みにして、
思考停止状態を作らない事も、大切だとは思います。




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