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占いと統計学 占いって統計学?



よく占いは統計学だと言う言葉を聞きますが、
占いと言うのは統計学なんでしょうか?


A、ハートランドなら…
もちろん、統計的な側面、シェイプアップは、
どこででも、いつの時代でも、常にされているでしょうが…。
学とまで言い切っちゃうのは、どうかなあ…
と、考えます。

「占いは統計学」
このフレーズは割と良く耳にします。

一例ですが、動物占いでは、
「古くから東洋に伝わる「陰陽五行説」と呼ばれる占いに「四柱推命」「易学」「心理学」「統計学」を加え、さらにコンピューターを駆使して分析した占い」
と言うキャッチコピーを見かけました。

「陰陽五行説って占いなのか?」とか、「ベースはむしろ、四柱推命の方じゃないのか?」とか、「心理学って具体的にどこやねん?」「易学はどのへんに入ってるべした?」「統計の方はいつどこで、どう取って使ったの?」などと、一々聞きとがめて突っ込み始めたらキリは無いかもですが、こーゆーもんはそもそも、「最シビアな方用に、その反論にも耐えうる…」つもりの学術的?コピーではなく、ごく普通の方、一般の方に対しての、「そう考えていただいて結構ですよ♪」と言うようなニュアンスでの呼びかけでしょう。

一方、このフレーズが言われるたびに、今度は否定的な方からは、
「占いは統計学などではない。統計学だというのなら、そのデーターはどこにあるのか?」となるでしょうし、こうなると仮にそこで、「ではこれがその統計ですよ♪」と何かのデーターを出しても、まず間違いなく、「なるほど♪」とはなりません。

統計に最シビアな方に言わせれば、
「統計を取ったデーターなど存在しない。」出して見せれば、「これは統計とは言えない。」で、どう転んでも、「有意性のある占いの統計」とは認めてもらえないでしょう。これは現在、私の統計上100%の確率です
そして今度はその統計をどう見るかについて、あーでもない、こーでもない、と、七転八倒になっちゃうでしょう。

性格と占いのところで、
「人間は自分の好きな分野には明るくなる♪」とお話しましたが、占いと統計も似たところはあると思います。占いから統計に切り込めば、統計の真摯な方が見れば、不備な点は多々あるでしょう。これは立場を反対に考えたら想像つくと思います。

例えば統計の専門家が、
「私が月支元命や十二運で統計を取ったところ、職業や性格には偏りは見られなかった。よって四柱推命は嘘である。」などと主張したとしたら、四柱推命を学ばれている方は「ちょっとちょっと、四柱推命ってそう言うもんじゃ無いですよ?あなた四柱推命の事をちゃんとわかって無いでしょう。」となるでしょうしね。


また、何でこんな事になっちゃうのかといえば、科学などと同様「統計」と言う言葉に対しての、定義やイメージが、これまた個々人で違うからなんだと思います。

人と意見がぶつかる、合わない、トラブっちゃう時と言うのは、片方の人が問題点だと思っている部分について、もう片方の人は問題点だと思っていない時に起こるものです。

一般論や、普通の日常会話の時に使う、柔らかい意味での統計と、専門的な統計学とでは、当然温度差があるでしょうし、統計的に「こうである」と主張する事と、統計的なアプローチを「試みてもいる」と言う意味では、これまた天と地ほど違います。

まず統計学かどうかが、大いに賛否あるところでしょう。
統計学の捉え方によっては、冒頭の動物占い見たく、学であると言う方向から、お話しする事も可能だとは思いますが…

とは言え、これについてはまず前提として、
統計学とは何ぞや?で、同じスタートラインに立たないと、
そこから先にお話しが進まないと思います。

ここで例えば、最シビアに学問としての統計学を学ばれている方などは、ご自分の定義の、統計学の条件をキチンと満たして始めて統計足りうる物…。見たいな感覚だと思うんです。
そしてたぶん、そう言う意味での学問としての要件を、占いの統計が満たすのが難しいと思うのは、前述の通りです。(実際、学としての定義自体が、割と曖昧でもあるように思うんですけどね。)

【統計的方法】 (初等統計学 ポール・G・ホーエル 培風館)
統計的方法とは、最も広義に定義すれば、数量的データを処理する方法であると言える。

【統計】 (広辞典  文学博士、宇野哲人編 集英社)
社会、自然の集団に関する現象を分析し、分類してまとめたもの「─学」

【統計学とは】 (はてなダイアリー)
数量的比較を基礎として、多くの事実を統計的に観察し、処理する方法を研究する学問。

ふむふむふむ…。言われて見れば、なるほどそんなもんかな〜とも思います。
確かにどれも、わからないほど難しい言葉での説明では無いですが、やっぱりまたここで、一つ一つの言葉にこだわれば意見は割れそうです。
例えば数量的データを処理しているだけなら、ずいぶん範疇は広そうですし、そのような、統計的手法を用いて研究をしている事を統計学…と呼ぶのなら、これまた充分、統計学にもなりそうです。が…?


ちょっと逆に考えて見ましょう。
例えば
「数量的データを一切加味しない」
(統計的手法、部分はまったく無い)とすると、どうなるのか?

これは例えば始めに学んだ、占いの理論だけを拠り所として、実占中のデーターを取ったり、それらで修正を行ったりを、一切しないような占い…とか…。

もしくは主に霊感、霊視や神託のような物で、一方的に情報や御告げを、アウトプットするだけで、その後のレスポンス情報をまったく考えない、回収しないでやり続ける、言葉は悪いですが一回単位の、やり捨てのような占い…。

でも、こう言うケースはまず少数派でしょう。と言うか、ほぼ無いに近いと思います。わざわざこっちのスタイルを選ぶ理由が、極めて考えにくいからです。やり逃げ前提の、占いの名前だけの詐欺師さんとか、明らかなインチキ占い師さんならともかくも、普通の占い師さんなら。

普通ならやっぱり、理論→実践→経験を元に、理論や手法を手直し→理論修正→実践…。占いに限らず、普通はどんな職業でも、広くこれが基本パターンだと思うんですよね。
ケーキ職人さんなら、ケーキの作り方について、経営コンサルタントさんなら、経営のやり方について。最初に学んだ理論だけで、何の吸収も、修正も、反映も行わずに、ずーっとそのまま行く人も少ないでしょう。

じゃあ修正をかけた部分は何なの?と言えばこれはもちろん、実践、経験を繰り返されたからでしょうし、そうした中で、より良い方向、より良い結果に修正出来るようになった、事後のデータ、経験、実践、経験則の蓄積部分と言うのは、(学としての統計の手順や書式に、のっとっているかいないかは別として、意味合いとしては)統計とほぼ同義だと思うんです。

複数回のデータを計測、積み重ねていくごとに、より適切な結果を出せるように、近づいたわけですから。
タクシー運転手さんが何度も道を流すごとに、
「こう言う日、こう言う時間のこう言う道路状況なら、こっちの道が早いんじゃないか?」と言うのは、経験を繰り返すうちに、蓄積されて行ったデーターでしょう。別に改まって統計と言う単語に直して、一々自覚されていなかったとしても。


その意味では実際の観測結果を積み重ねて、結果を修正し続けていく、相術の人相、手相あたりなどは、まさに統計そのものとも言えるでしょう。
あらかじめ
「学としての客観性、科学性、正当性を、積極的に他者に主張したいために、データを第三者にわかる形で」発表したり、残したりを主目的にしていないだけです。
ではそこが欠けると統計ではないのか?と言えば、あくまで、他者に伝えられる部分や、より複数人の手による客観性のような部分が欠けるのであって、行為の本質が統計である事には、変らないと思うんですよね。学かどうかで意見は割れても、まったく統計では無い、とまでいったら極論でしょう。

一人の手によれば統計ではない、複数人なら統計だ。
発表がなければ統計ではない、発表されれば統計だ。

私ならそう言う物でも無いと思います。統計と言う言葉が使用禁止になるわけではなく、信頼性や客観性が大きく変る場合が多い。あくまでより問題になるのは、この点だと思います。


だからこの辺「統計学とは、単に統計的手法を試みていると言うだけではなく、最シビアな学者さんが見ても、太鼓判を押せるほどの、内容、ボリュームを持った上で、因果関係や科学的背景を備えた物。それら厳密な要件、条件を満たさなくては学問、科学、統計、統計学とは言えない。」的に100のうち、1でも欠けたらダメ!の減点法をふるいにして考えるなら、これはもちろん統計学では無いでしょう。どうひいき目に見ても占いの統計とはそう言う物ではないと思います。

が、ハードルをそこまで上げるのなら、そこまでのハードルをクリアしてまで、ことさら統計“学”である事を主張をする、必要性やメリットの方を私なら感じないんです。
これは個人的な意見ですが、もともと多くの占いって、そう言う確たる物の守備範囲では手に余る事象、部分を担当している物だと思うからです。
声を大にして学と主張するほど、完成された統計のウエイトばかりでも無いと思うし、学で権威付けする?事も無いと思うんですよね。

一方で学者さん同士での理論合戦じゃないんだし、そこまでのシビアなレベルは考えないで、一般的な認識ではどうなるのかなあ?と言えば、これは充分、統計的側面はあると言って良いと思います。

ここから先は各占術、占い師さんでも変ってきますが、先の相術もそうですし、占星術などは天の星の状態と、地上の出来事を何度も繰り返し観察するうちに、事象の相関を結びつけて出来て行ったようです。これを素直に考えるのなら、充分統計と言う解釈は出来ると思います。別に一発必中で、思いついたわけでは無いでしょうし、結果的に命術や相術では、以後もデーターを蓄積していって扱う、フィードバックするとでも言うようなウエイトは、大きいでしょう。

ただし相関関係が見て取れるようだ…と言う事と、因果関係が解明されたと言う事や、全ての人が客観的に納得できる、と言う事はまた別ですし、多くの占いでは「占いは統計ありき」で、まず統計を元に、占いが生まれたわけでも無いとは思います。

卜占であるタロットや易では、統計の検算手段が比較的用いにくいですし、ホロスコープと特定事象の関係の統計などと言うのも、身近な物になるほど、さまざまな要素が関係しているため、一面的に関係を見出すのは難しい物と思います。


統計もまたやわらかい統計的視点に立てば、世の中のほとんどの事って、統計で扱う事が出来ると思います。
広い広いその意味では、統計は非常に使い道、使い勝手の広い物だと思いますし、ある種「まったく統計性を持たないデーター(数量要素の介在しないデーター)」と言うものの方が、いろいろな意味でむしろ少ないのでは無いかと思うくらいです。

ところがそこで統計は、厳密な学に近づくほど、数量化のデータや客観性のハードルが上がる物と思うんですよね。これは科学、特に自然科学などでも同じと思います。

一方で占いで扱う、対象とするような事象は、そもそも主観のウエイトが大きかったり、白黒の判断の難しいようなデータも多く含まれます。普通はそう言う「ファジーな対象は統計学では扱えない、みなせない。」と割り切るでしょうから、その意味では統計学では無いと思って良いのでは無いでしょうか?むしろ統計学では対象にしづらい、してもらえない物までを扱っている、広義の統計と考えた方が適切だと思います。

「こうしたら幸せになったですよー♪」「開運出来ましたぁ〜♪」などと言う統計などは、幸せや開運の判断基準が定義不可能に近いのですから、学としては成り立たせにくいでしょう。
それをある種、占いでは「占いであって学にこだわらないからこそ、こう言う形でデーターを収集、検討して」と自由にやっている場合がほとんどだと思うんです。
が、ではその行為は統計学ではないとしたら何なのか?と言えば、にはならないだけで、やってる事を言葉に直すのなら統計でしょう。

「こっちのケーキとそっちのケーキでは、統計とったらこっちがおいしいって言う人が多かったよ♪」と言う事がわかれば、お菓子屋さんなら普通は事足ります。せいぜい年齢別ではどうかとか、男女別ではどうかとか止まりじゃないですか?
統計自体を研究する事が目的では無い、多くの実用的な統計では、統計を使って改善、適用したい対象の方が、より主体になるわけでしょうが、そう言う時にだって、統計と言う言葉は使います。

「それは統計学ではない。統計だと言うのなら、まず母集団は?サンプル数はどれだけなのか?抽出方法はどうだったのか?おいしいとはどう言う意味か?統計結果に影響がある要素は本当になかったのか?ケーキはどっちを先に出したのか?質問時に誘導と取れる部分は無かったのか?」などと言われても、普通お菓子屋さんならそれらの条件を満たして、学として打たれ強い統計データを作成する事や、カイ二乗で相対度数分布表作って、統計としての精度向上を目的にしているわけでは無いのと同じでしょう。

「お庭のチューリップ、黄色い方が先にたくさん咲いたんだよ〜♪」と子供が言ってる時に、「ウラーッ!ここのお庭しか調べていないのに、何でそんな事が決め付けられるのカーッ 根拠の無い事を言う、この嘘つきめぇーっ!」などと始めたら、普通は統計を子供に教える人ではなくて、いたいけな子供をガーガー泣かす、大人気ない人になっちゃうでしょう。

日常ではそう言う柔らかい意味で、お互いが統計だと認識して話している対象は、厳密な学の統計よりもずっと多いと思います。にもかかわらず、占いの時だけ
「統計学である。」「いや、統計などではない。」とのやり取りが起こるのだとしたら、その柔らかい意味を逸脱するところまで、占い側が統計学である事を主張し過ぎている部分もあるかも知れません。


ハートランド的に占いと統計について、一応のまとめをするなら…

●占術にもよりますが、占いに統計的な側面、部分、要素は多々あります。

●学かどうかは置いておいても、単純に、複数の観測結果を数量処理している、と言う意味では趣旨的には、充分統計とも言えると思います。

●統計データーは古今東西いくらでも、さまざまな形で存在します。占いの統計データーが無いと言う事はありません。(そもそも統計を取りたければ、誰でも出来る事です。)

●問題・ポイントはむしろあるか無いかではなく、それぞれの統計データーの有効性、有意性、どこまでどんな形、意味で、信頼して良いのかの方でしょう。

●一方で完全に正しい統計などと言うものも、まずありません。どんなに客観的に見える統計でも、実際は相当量、加工、演出が可能な物です。
(統計ではこうだ=真理、真実、と言うわけでもありません。言い換えればこの統計の切り口をどう取るか?こそ、統計の妙や、腕の見せ所でもあると思います。)

●もちろん、だからと言って明らかに主観的なデーターや、お客さんを説得するため、自分の占いを正しく見せるための、不適切な統計を盾にするのは問題でしょう。

●そう言う作為的なやり取り以外でなら、「占いに統計的な要素、部分もある。」と言う程度の認識の仕方は、別に間違いでは無いと思います。

●ただ「占いは統計学である」と言う一対一の主張や、またことさら“学”である事を強調、主張する必要性やメリットは、私ならあまり感じません。




最後に、統計について好きな言葉を引用させていただきます♪(青字部分)

統計学で楽しむ 理学博士 鈴木義一朗 講談社、ブルーバックス

プロローグ
 とにかく、次の点が肝心なことなのです。まずは実際に、問題とされている“現象”をみつめることです。「データ」の形をした「数値」であるとか、それをいろいろと処理していくための「数式」の類は、適正な現象認識のための、一つの“方便”にすぎないということです。

あとがき
 統計学に対しても、かなりの人たちが大きな錯覚を抱いているようである。統計には、たいてい「数」がつきまとう。数をイジリマワスには、「公式」が必要。公式と言えば、数学の専売特許みたいなもの。結局、統計は数学と深い関係がある、と解釈されてしまう。かくて、数学に弱い人は、なまじ統計なんかに近づかぬほうが賢明、と敬遠されてしまう。
 データの形をした「数値」や、それをいろいろ処理していくための「数式」の類は、そのデータの背後にある“現象”を適正に認識するための、一つの方便にすぎないということを、プロローグで強調しておいた。つまり、数学的才能だけで“データ解析”は不可能である。数学に弱いより強いにこしたことはないが、数学にカブレテしまうと逆効果になる。


この後あとがきで、氏は渡り鳥を例に出されて、感覚的により良い環境の場へ移動していく渡り鳥もまた、統計を上手く使っていると言う見方も出来る…と、続けられています。

統計もまた、現象を紐解き、目的を達成するのに有効な、さまざまな手段になりうると思います。

私自身は、いろいろな方向から目的達成のための手掛かりになりうる、そしてそれは使い方次第と言うその意味では、占いも統計も同じ手段では無いかと思っています♪

 
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